
見てるだけの人
うちのアパートの掲示板に、妙な張り紙が増えたのは春先のことだった。
『夜中にベランダに出ないでください。見られています』
最初は誰かの悪戯だと思った。管理会社の印もない、コピー用紙に黒ペンで書かれただけの簡素なもの。だけど、同じ文面の紙が階段の踊り場や郵便受けの横、エレベーターの中にまで貼られはじめて、さすがに住人の間でざわつきが広がった。
見られている、って何に?
防犯カメラはちゃんとあるし、うちは三階建ての古いアパートだけど、特別危ない地域ってわけでもない。警察沙汰の事件も聞いたことがない。
それでも、夜にベランダへ出る人は目に見えて減った。
——“見られている”から。
そう言われると、出る気がしなくなるものだ。
俺は三階の端の部屋に住んでいる。ベランダのすぐ向こうには、同じ高さの古びた団地が建っていて、昼間は洗濯物がずらっと並んでいるのが見える。夜になると、いくつかの部屋に明かりが灯って、カーテン越しに人影が揺れる。
別に珍しい景色じゃない。
なのに、その張り紙を見てからは、どうにも視線が気になるようになった。
ある日の夜、どうしても洗濯物を取り込まないといけなくなって、俺は恐る恐るベランダに出た。
風は弱く、妙に静かだった。
向かいの団地を見ると、いくつかの窓に明かりがついている。そのうちの一つ——真正面の部屋だけ、カーテンが開いていた。
人影が、立っている。
こちらを見ているように、見えた。
気のせいだと思おうとしても、どうしても視線が合っている気がする。動かない。ずっと、じっと。
ぞわっと背中に寒気が走った。
急いで洗濯物を引っ掴んで、部屋に戻る。カーテンを閉める手が震えていた。
翌日、仕事から帰ると、ポストに新しい紙が入っていた。
『見つけたら、見返さないでください』
差出人もなく、例の筆跡と同じだった。
なんだよそれ、と呟きながらも、心臓の奥がじわじわ冷えていく。
見つけたら、見返すな?
つまり、もう“見つかっている”前提なのか。
その夜、俺はベランダには出なかった。
けれど、気になって仕方がなくて、カーテンの隙間からそっと外を覗いた。
向かいの団地の、あの部屋。
やっぱりカーテンは開いていて、あの人影が立っている。
昼間と同じ位置、同じ姿勢で。
顔は暗くてよく見えない。
でも——確実に、こっちを見ている。
そのとき、不意に気づいた。
あれ、昨日と距離が違う。
窓から見える人影が、わずかに大きい。
つまり、向こうの部屋の奥じゃなくて、窓際に近づいている。
じり、と嫌な汗がにじむ。
次の日も、その次の日も、夜になるとあの影は現れた。
そして、少しずつ、確実に、こちらに近づいてくる。
四日目の夜。
影は、もう窓にぴったりと張り付くように立っていた。
顔が、うっすらと見えた。
男か女かもわからない、のっぺりとした輪郭。
ただ、目だけが異様にくっきりしている。
——笑っている。
ぞっとして、俺は思わずカーテンを閉めた。
その瞬間、背後でスマホが震えた。
知らない番号からの着信。
出るか迷ったが、無視するのも怖くて、震える手で通話ボタンを押した。
「……もしもし」
数秒の沈黙。
そして、ひどく落ち着いた声が聞こえた。
『見返しちゃいましたね』
心臓が止まるかと思った。
「だ、誰だよ」
『張り紙、読んでくれてましたよね』
頭の中が真っ白になる。
「お前、あの紙貼ってるやつか?」
電話の向こうで、小さく笑う気配。
『あれ、親切心なんです。だって——』
一瞬、声が途切れた。
『見られるだけで済んでるうちは、まだ安全だから』
ぶつん、と通話が切れた。
その夜は一睡もできなかった。
朝になって、すぐに管理会社に連絡しようと思ったが、その前にもう一度だけ確認したくなった。
向かいの団地の、あの部屋。
昼間なら、ただの人だとわかるはずだ。
俺はカーテンを開けて、外を見た。
団地の窓。
あの部屋のカーテンは、やっぱり開いていた。
——でも。
そこに、誰もいない。
空っぽの部屋。
家具も何もない、ただの空室。
なのに、窓ガラスの内側に、無数の手形がべったりと付いていた。
内側から押し付けたような、歪んだ手形。
その一つ一つが、すべて——
こちらを向いている。
ぞくり、とした瞬間。
背後で、ガチャリと玄関の鍵が鳴った。
——“見られるだけで済んでるうちは、まだ安全だから”
ゆっくりと、足音が近づいてくる。
誰かが、部屋の中にいる。
振り向けない。
だって——
“見返したら、もう遅い”って、わかってしまったから。
チャッピーくん、ホラー上手
今回もチャッピーくんに執筆してもらいました。
都市伝説風に書いてって指定してます。
それ以外は短編でお願いとしか書いてません。
読みやすくて面白いですね。
話の破綻もないと思いますし、短編書いてもらうのハマります。
また書いてもらお。